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 朝には夜の霧が嘘のように晴れていた。風が攫っていったのだろう。ほかの人が起き出すころには、明け方の雨と朝露で濡れたテントと寝袋、ズボンを干し終わっていた。1時間ほど太陽に当てると、すぐに乾いた。キャンプを楽しんでいる人々がゆっくり朝食を食べているのを横目に出発した。ヌプカウシヌプリの峠道を越えようとしたが、先週の大雨で道が崩落しているようだった。帯広まで引き返して、フロンティア通りを越え、さらに東へと向かった。納沙布岬にあるというライダーハウスが今日の目的地である。浦幌、白糠、釧路の湿原を通り抜け、厚岸と太平洋沿いを走った。道の駅があるたびに少し寄ったりした。根室に着いたのは陽が落ちる1時間ほど前だった。根室の市街地を抜けて半島に入るとそれまでの道とは一気に雰囲気が変わった。最果てというのがしっくりきた。怖いくらいに雰囲気のある漁村であった。年に一度、2日間、今が旬だというさんま祭が行われており、根室港の周りにだけ人が溢れていた。港沿いの道まで、炭火焼のにおいが漂っていた。納沙布岬まではオホーツク海沿いを走った。暗くなっていく東の空に向かって走る一本道は、ぽつぽつと点在する寂れた家と、少し暗い北の海に挟まれて極東へと続いていた。

 岬のそばにある食堂の扉は閉まっていた。中にはまだ人がいるようだった。扉を叩くと、三角頭巾を頭にしたおばちゃんが出てきてくれた。「食事は済んだのかい?」「まだです。泊まりたいのですが」「そこの小屋ね。ちょっと待ってな」隣にはライダーハウスと書かれたプレハブ小屋が建っていた。しばらくして同じくらいの歳の男性がやってきた。「案内しますよ」「バイク、こっちに停めちゃってください。倒れるとマズイんで、敷板持ってきます」「これ、バリオスですか?」「僕もカワサキなんですよ、好きで」「最初変なバイク来たなと思ったんです。原型とどめてないじゃないですか、で、このへんみたらバリオスかなって」よく喋る明るい人だった。冷却装置のカバーを差しながら笑った。「壊れたの治しながら乗ってたら、いろいろいじりすぎちゃって」と話すと「自分でやったんですね、いいなあ」と言ってくれた。
「あ、受付と一緒にめし、食べていってください。もう食堂は閉めちゃったけど、お母さん、泊まるなら作ってくれるって。荷物置いたら、そこのドアから入ってきてください」
 食堂にはいると、それは賑やかだった。案内してくれたお兄さんと、お母さんと呼ばれたさっきの女性がなにか言い争っていた。お母さんと呼んだので、「親子なんですか?」と訪ねると、「このバカ息子、日本一周してるバイトライダーなの。ここでバイトするやつはみんなあたしの息子なの」と言った。なんだそのドラマでしか聞かないような設定は。それにしても本当の親子のように喧嘩しているので驚いてしまった。

「お兄ちゃん、たくさん食べれるかい?」と聞かれたので正直に「はい、めちゃくちゃ腹減ってます」と言うと「そうかい、じゃあサービスで大盛りにしとくからね、サービスだよ」とさっきまで喧嘩していたとは思えないトーンで笑っていた。しばらくして「お待ち遠様。さんま丼特盛だよ」とお母さんが持ってくると、「これは特盛りも特盛りっすよ〜珍しい、いいなぁ」とバイトライダーの彼が言った。
 いただきます、と言うと、お母さんが元気にはいよ!と答えてくれたのがなんとなく嬉しかった。僕が食べている間、バイトライダーとお母さんはずっと親子喧嘩をしていたが、さっきの何でもなかったようなトーンを思い出すと、微笑ましかった。僕も時々話しながら完食した。
「もう2人くるんだけどね。1人は自転車なんだ」とお母さんが言っていた。

 夜、暗くなってから、明日の計画を立てているころ、もう1人が来た。入ってきて僕は驚いた。根室の市街地に入る前に追い抜いた自転車乗りだったからだ。この寒い中、半袖短パン、ヘルメットなしで坂を下っていた彼は記憶に残って当然だった。彼と話をしていると、バイトライダーのバカ息子さんがドアから顔を覗かせた。
「あとの1人は今日は来れないみたいです。消灯一応23時ですけど、おふたりのタイミングで寝ちゃっていいですよ」
そう言われはしたものの、自転車の男性は、なぜか話していて心地よく、北海道に着いて2週間目に入るという彼の土産話や身の上話を聞いたし、ぼくも色んなことを話した。彼はぼくの4つ年上だった。

 そうしていると、ご飯を食べている時食堂の厨房にいた別の眼鏡の男性がかなり酔った様子で酒を持って入ってきた。てっきりお店の従業員とかだと思っていた彼も、ライダーで短期バイト中らしい。
先に小屋にいた僕たちは、「あした日の出見にいこうって話なんです。一緒に見に行かれますか?」とさっき2人で立てていた計画を持ちかけた。そのあともしばらく酒を飲みながら話し、少し寒い小屋で布団を敷いて寝た。

 朝、起こされた。「そろそろ日の出の時間やないですか?」短期バイトの眼鏡の彼が咳き込みながらそう言った。僕たちは3人で歩いてすぐの岬にむかった。岬には日の出を見にきた人がちらほらと確認できた。

 薄明るくなってきた空に、やっぱり寒いな〜、などと言いながら、僕たちは日の出を待った。納沙布岬、日本の最東端からみる朝日は、素晴らしいものだった。雲の切れ間から 僅かに顔を覗かせたと思ったら、太陽はぐんぐん昇って、海から離れた。赤い太陽が、まるく、水面をきらきらと反射させていた。並んで言葉を失いながら、次の雲にすべて覆われてしまうまで眺めていた。国内の最東端と最西端では日の出の時間がおよそ2時間も違うらしい。間違いなく、納沙布岬が、日本で一番早い日の出だ。
 短期バイトの彼はそのまま朝の仕事に向かった。自転車乗りは体力を使うので、すぐに寝直しに小屋に戻った。僕は暖かいミルクティーを自販機で買って、朝焼けを見ながら一服した。 プレハブ小屋に戻ると、寝に戻ったはずの自転車の彼もまだ起きていて、お互いに大あくびをしながら「寝ますか」と笑った。