アイスランド ルート1 一周+a

2023
5/4~5/9の5日間でアイスランドのルート1をほぼ一周しました

(一部ショートカット、一部遠回りした)
当時のツイッターをまとめつつ、思い出してみよ

一周は計画を練り練りして最終的にこんな感じで行いました。

最後のReykjavíkでの1泊以外すべてキャンプ場にて車中泊、朝飯と夜飯はスーパーで買ったなにがしかで自炊(ガスコンロ)でした。

もうちょっとゆとりのあるスケジュールを立ててたけど、その場で早めたりしたので実際にはこれ通りではなく、泊ったキャンプ場などが若干違います。

経路としては大きな違いはないのでこのまま貼っときます。

 

2023/05/04

この日はミュンヘンから空港~アイスランドで車を借りてシンクヴェリトル国立公園まで

16:55
うおおおアイスランド着いたあ!めっちゃ曇り!なんもねえ!

曇りなのにめちゃくちゃテンションが上がっている。このあと空港から離れたレンタカー屋へ向かうため、電話したりする。同じ便できた3グループくらいの観光客とワゴンに乗せられる。1人で来たのは僕だけっぽくてみんなワイワイしている…。

19:24
総走行距離7キロ「She is very new」プジョー3008を借り、スーパーで買い出しし、車中泊キットをレンタル、これからシンクヴェリトル国立公園ちかくのキャンプ場へ向かいますです

-レンタカー屋のおにいやんに「どこ行くん?」て聞かれて「リングロードを多分一周…」って言ったら「マジ?5日で?ハードだね!僕の友達もやってたよ。車で寝てた。彼は成功したよ」後ろの人も「ノンストップだ!」と言ってて(あ…やっぱりハードなんだ…)ってなった私「もちろん車で寝ます」

-「日本人?日本からの旅はどうだった?どのくらいかかった?」「実は今ミュンヘンに住んでるんで数時間でひた」「へえ、ドイツ語話せるの?」「いやまったく」「僕もアイスランドに5年住んでるけど全くアイスランド語話せないよ!そんなもんだよね!大丈夫!」「へへへ…」

レンタカー屋で人とアイスランド初の世間話出来て、しかも新車を借りれてめちゃくちゃハッピーになっている。車もいい感じだし、キャンプ用具も難なくレンタル出来て幸先がよい。

20:07
あははははは!!!!!なんもねえ!!!!だれもいねえ!!!!すげえ

市街地を抜けて国立公園をめざす。そんなに走ってない(と思う)のに荒野が広がっていてテンションぶち上げ。少し降りたりするも、暗くなるまでにはキャンプ場につきたいのでガマンガマン。

23:22
ランタンを忘れたので哀愁漂うブタに光を拡散して貰っています

風が強く、みんな外に出ていない(か寝ている)けど車列の中にまぜてもらう。失礼。ランタンを忘れて悲しんだが、レイキャビクを出る前に買った水をランタン代わりにする。

車中のようす。

2023/05/05

翌朝、シンクヴェリトル国立公園のギャオなどを散策し、そそくさと間欠泉へ。

09:14
な、なんか入れてる?ってくらい青い

09:19
ワ・・・・あったかい湯気・・・・・

ものすごい迫力と思わぬ暖かさに困惑。

10:58
突然のレイキャビク

アイスランドに来てまで日本語グッズに写真を撮らずにはいられない日本人。

13:08
すごすぎて笑えるwwwwと思ってたら帰りすれ違う人全員笑ってて😊ってなった

でっかい滝(グトルフォス)を見た後裏から見える滝(セリャラントスフォス)を見に行く滝マニアと化す。

15:07
知らんおっさんの🙌

裏から見える滝のさらに奥には秘境滝もあり、滝のバーゲンセール。なお全部すごい。

17:35
ヒョエ・・・・・・・(・・・・・・・)

結構歩いた。ヤバイ。(Fjaðrárgljúfur)←一生なんて読むかわからない

17:35
モス

途中立ち寄ったパーキングエリア…と思いきやしっかり何かの公園。

苔、大事に。

20:20
本日の停泊地とご飯です!ラム肉奮発しました!うまい!キャンプ場にドイツ人いた!ドイツ語話してたからドイツ人ですか?って聞いたら驚かれた丸

-ラム肉マジで美味いな 何これ

-1枚2000円(2枚入り)のラム肉(アイスランドの物価がエグいんじゃ!)

アイスランドの物価に驚きつつもラム肉があまりにもうまかったことですべてを許す。
それにしてもアイスランドのキャンプ場は何でもそろっていてすごい。

22:00
20時すぎた頃から続々とキャンプ場に人が集まり始めた、先にシャワー浴びといてよかったナ

シャワーに行列ができるとつらいので。

22:02
アイスランドの22時まだ陽が落ちてないね!

のんびり空とか緑を眺めながら空港で買ったビールをごくごく。

2023/05/06

この日は朝からダイヤモンドビーチへ。

遅くても2時間でサクッと出るつもりが、あまりのやばさに船に乗る始末。でも乗ってよかった。

10:05
やばい

10:08

ヤバすぎて軽率に乗る予定のなかったツアー船に乗りました あのシマシマ、噴火の跡らしい どの年代の噴火の層か分かるんだって・・・

ボートから見る氷河はこれまたよかったし、アザラシもみれたし、解説も聞けて何より。

海岸の方にはこんなでっかい氷がごろごろ。

そしてルート1から外れて(ルート1はフィヨルドの海岸沿いを行くので、かなり時間がかかるし、他に見たい場所があったので)95号線へ・・・。

悪夢のはじまり。何時間か忘れたが、かなり長い間、濃霧の中アップダウンの激しいダート道を移動。アップダウンが激しいっていうか、日本だったらこんなの道として認められてないくらいやばい。死ぬ。完全にオフロード。

16:55
峠越えした、アイスランドは四駆じゃないと通れない道(Fロード)があるけど、F付いてないからって前の二駆に着いてったらマジで命の危険感じた Fつけとけばかやろー!って500回くらい思った 奥に見える雲を被った山です 真面目に10m前がギリギリ見えるくらいで前の車いなかったら終わってた

-峠越えて晴れ間見た時は「生きてる………生きてる!!!!!」ってなった

生還を喜んでいる。
そして行きたかった場所とはStuðlagil。ストゥズラギル?なんて読むのかわからん。

壮大な柱状節理の渓谷に流れる川。
雪解け水で少々濁っておりますが圧巻の景色。この日はこの渓谷の反対側にある展望台の近くのキャンプ場に宿泊予定。

20:45
誰もおらんから1人で飯炊きしてたらおっちゃんが来て支払いに成功した、良かった。おっちゃんのアイスランド訛りとおっちゃんのサイドミラーバキバキ車サイコーやった

20:46
Statisticsて日常会話で初めて聞いて一瞬ほえ、?ってなった どこの国から来たのか政府が統計とってるので全員に聞かなくちゃいけないらしい

受付なんてないし金も払ってないからいていいのかとひやひやしてたら回収に来てくれたので一安心。この日は少し間をおいて隣に一人の地元キャンパーが来てましたが、歩きすぎて疲労がとんでもなかったためぐっすりと就寝。


2023-05-07

9:39

すーっーーーーーー〜ーーーーげぇ
もうすげえ以外の言葉が出てこねえ
すげぇ

今までは比較的海岸沿いを走ってましたが、この日から内陸側の「ハイランド」と呼ばれる方に近い地域を通ります。その名の通り結構標高が高いようで、雲も近いし、空気が澄んでるし、今までとはまた違った面を見せられてさらにテンションが上がっている模様。

13:51
ダッシュボードにおいて滑ってゆくスマホ

なんとか走行中の清々しさを記録しようと、スマホダッシュボードに置いてビデオ撮影する。

14:36
ついに1000キロを突破

そんなこんなしているうちに早くも1000km走っていたらしい。

湖に寄ったり

硫黄だらけの公園を見たりしつつ

15:43
あれが!!!!アークレイリ!!!!でっけえ船が!!!今からあの長え橋?!?!を渡って?!?!アークレイリに!!!?!

このあたりにある邪悪な有料トンネルを回避して半島沿いを走ると向かいにアークレイリが見える。久しぶりの大きな町に豪華客船、しかもバックには雪山と最高満点盛り合わせだったので大感動。

街中で見たハートマークの信号。かわい。

23:57
今日もたくさんすごいものを見た

あまりにも怒涛のいい景色で脳がパニックを起こしながらもご満悦。

2023-05-08

この日からルート1を外れて国立公園のある半島に寄り道する。

11:44
これが本当のGood Viewか・・・Good viewだな・・・・・・・・・Good viewすぎる・・・・

昨日の夜ゴロゴロしながらどっか寄れるかなーと地図を見ていたら、「Good View」などと安易な名前の付けられたポイントを発見したので寄ってみることに。そうしたらもう本当に「Good View」。「Good View」としか言いようがないほど「Good View」。「Good View」だわ…としか言えなくなっている。

ちなみに、朝からルート1を外れたため道はどんどん舗装されなくなっていき、どえらい土煙を被ることになる。

運転席側も助手席側も、窓とサイドミラーが機能しなくなるほど泥まみれになったため、駐車場に止めてウェットティッシュでふきふきしていると、フランス人のご婦人グループに「わたしたちもそれをやらなきゃいけないの」と話しかけれらる。大変だったっすね。え、てか中高年のご婦人グループであのボッコボコの道来たんすか?最高だね。

13:08
なんか、全部デカいのと遠くまでよく見えるから、あの滝近いぞ!駐車場もあるし、2〜3分歩いたら着きそうやな!近くまで行ってみるか!みたいな滝が実は片道20分くらいあるみたいなね、そういうところですねここは

-すごいです
あと今私は今週の水星の魔女のネタバレを踏みました

-六本木から東京タワーを見て、大きく見えるからすぐ歩けそうだ!ってなる東京タワー建築当時の人みたい(全部想像)

-うーんデカい

思いがけず滝までめちゃくちゃな距離を歩いてしまってもなお着かないのでスケールのでかさに意味の分からないことをツイートしている

ルート1を外れた目的である国立公園を探しながら車を走らせる。

と、National Parkの事務所?兼展示?のある建物を発見。受付にいたお姉さんに「この国立公園ってどこにあるの?」と聞いてみる。

15:19
国立公園を探している…だと?お前はもうッ!!既にッ!!国立公園の中を走っていたのだッ!!

-地図のピンはインフォメーションセンターだった。この道路を車でずっと行って、止まりたいところに止まって歩いたらいいんよwって言われました

-登山やん

なんとすでに国立公園の中にいたことを教えられ困惑。

そのまま半島の海岸線沿いを進む。だってここもう国立公園なんだし。

で、受付のお姉さんに言われた通り、看板やグーグルマップをみてよさそうなところで車を降り、歩いたり登ったりしてみる。アイスランド、最後までハードな島である。

16:21
人類消えたんか?????

この朽ち果てた家が一番おきにいりでした。

全然人いない。

この海岸線沿いとか、岬は結構人がいっぱいいました。

鳥もいっぱいいた。

16:22
走っている車を見つけていただくと規模がよくわかります

19:51
うっすら虹がかかってたね〜今日は車中泊最終日〜

ひと通り国立公園を楽しんだので、アークラネスにあるキャンプ場まで南下。

この時から若干の名残惜しさを感じ始める。

21:20
2日連続シャワーから温泉でしたね!
昨日は天然露天風呂で凄かったけど、お湯から出る時に勇気が要りすぎて「う"ぁ""'ぁ”ぁッッ"ッ"ファッキンcold💢💢(シャワー室ダッシュ)」音楽流して酒飲みながらまだ浸かってるイギリス人「hahaha!!!」お前らも後でこうなるからな!!!ってなってた

昨日の晩の風呂について言及、誰もいない時に取った露天風呂。

こっちがアークラネスのキャンプ場のシャワー(温泉)。

炊事場で夜ごはん。

23:21
時間と金が無限にあったら、ジムニーにルーフトップテントを積んで、2か月くらいかけて全ての街とFロードからハイランドまで走り回りたい、本当に・・・時間と金が無限にほしい・・・多分僕、アイスランドなら家がなくても全然生きていけるわ・・・・

2023/05/09

アークラネスの灯台に立ち寄り、車を返すためレイキャビクへ。

灯台に入る入場料をおじさんにまけてもらう。え、一言もまけてとか言ってないんですけどね…。フェイスブックを教えてもらう。

11:01
突然のデイビッド・ボウイ

突然の日本語シリーズ。

12:51
レイキャビクに帰ってきた、、帰りたくない、、、車返したくない

悲しみに暮れる。
とは言え着いちゃったのでレイキャビクでも見たかった場所へ。

アイスランドの歴史的家屋が野外で保管されている博物館。
色んなおうちに入ったりして楽し。

車を返す前に最後の軽食in社内。

16:18
なんと無事に車を返したぜ!最後写真撮り忘れたけどレンタカー屋で1800キロ超え、ありがとうそしてさようならvery newプジョー3008

車を返し、ハットグリムス教会へ。実はホテルもこの教会の近くにとってあり、今日はレイキャビクの市街地をぶらぶらする予定。

16:37
5分遅くててっぺん登り損ねた😇

馬鹿をやらかす。てっぺんにある窓のところまで登れるのだが、16:30に終了していた。悲しみに暮れるも、中の様子だけは見ておく。

今まで古く伝統的でステンドグラスや宗教絵画、ろうそくや十字架、あらゆるものが飾られた教会に、何百年前に作られたのやらというパイプオルガンがある教会をみてきたので、なんかもう新進気鋭のデザイナーのようなカッコよさに打ちひしがれる。厳か。

17:54
ロキ!ロキでビール飲んでる!本当にあのロキ!さすが北欧神話

ひと通り散策した後、夕食。
マイティソーのロキ(悪役)が大好きなので、LOKIというお店に決定。評価高いし。

-一周達成祝い

-さすが水道からミネラルウォーターと温泉が出る国である、席に着くと無料の水が出てくる(ヨーロッパではあり得ない)

ラムチョップ。おいしかったが、スーパーで1枚2000円のラムステーキの方がおいしかったと言ったら怒られるかもしれない。だが本心である。

18:49
5日半でアイスランドのこと大好きになった僕(お土産売り場が全部推しグッズに見えるので買い占めたい)

アイスランドでとった唯一のホテル。くそ重たいスーツケースを運んでくれた親父さんに感謝。

2023/05/10

12:16
ミュンヘンに戻りました!スイスからスピード違反のお知らせが届いたそうです!たぶんアイスランドから無事に帰ってきたことで全てのラックを使い果たした

でも帰ってこれてよかったね。

17:22
アイスランドで買った書き出しがサイコーにクールな本

 

20:24
なんか、視界をどうにかして今見てるまんま、あとでまた見させてくんないか?どうにかなんないか?みたいな?「目に焼き付ける」とかいうやつを今やらせてくんないか?みたいな?ずっとそんな感じでな

-写真やビデオじゃ全然すごさわからんから、思い出すことはできるけど見たまんまのが5億倍良いから、また行くしかないよな!天気とか季節とか、違ったらまたそれもとても良いんだろうな!今度はオーロラも見たいし、スッキリ晴れたり

-したら綺麗な水もさらに綺麗なんかもな、夏の終わりとかだと山の雪が溶けてまた別の景色になるんかもな、また行きたいぜ〜

 

アルバニア テス ヴァルボナパス

アルバニア テス(Teth)-ヴァルボナ(Valbone)パス トレッキング
2023/9/14

 なぜ今更アルバニアでのことを記録しようと思ったかというと、あまりにも素晴らしい体験だったので、このまま詳細を思い出せなくなってしまうのはもったいないという気持ちはもちろん、ふと登山の恐さを思い出したのと、日本語でテスからヴァルボナへの登山を書いている人がなんとなく少なかったので、なんとなく後続の方の一助になればと思ったからだ。まあ、このブログにたどり着く人がいるとは思えないけど!

 と、いうわけで、長い記録の前に、
 私が最初に誤った道に進んで2時間ほど山を彷徨っていた時に行こうと思っていたルートを手っ取り早く先に紹介しておきましょう。

黄色いルートに地図どおりの道があるのか不明。避けた方が良さそう?

 テスの村からやや南にある赤丸地点が私の宿泊地。右側の赤丸の目的地がテス~ヴァルボナルートの頂上地点(ピーク)に当たる。

 端的に言うと、黄色い道はあるかわからないし、誰もいない。(たまに馬はいるが)

 テスの村は南に行けば行くほど登山口から遠ざかるため、ホテル代が安くなる傾向にある・・・気がするので南の方に宿を取る人も多いことと思う。そのあたりからうっかりグーグル検索などで頂上までの道順などを調べてしまうと、黄色いルートが真っ先に出てくる。けどたぶんそんな道はない、というかあったとしても旅行者が行くべきではない(まして単身ではなおのこと)。グーグルマップにある道を信用してはならない。その道はMAPS.ME(海外旅行で大変便利な地図アプリ)には載っていない。
 南の方に泊まっても、テスの村の北(大きい☆地点)まで行き、そこから赤いルートでピークかヴァルボナを目指すのが良いかと思われます。

ということだけ真っ先に記しておきます。
 ちなみに歩いていくとテスの村の南(教会の付近)から北の登山道入り口まではまあまあ距離がありますのでお気をつけて。
 黄色い道のことをご存じの方がいれば教えて下さい!笑

 

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 そんなわけで、ここからはアルバニアやテスの村でのことなどを振り返りながら記録しておこっかな!

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 2023年の9月、アルバニアのドゥラスに20日間滞在した。

ドゥラスの大通り
夕日とセンター街

 

 首都のティラナや世界遺産のベラトを見て回った以外、平日はほとんどドゥラスの海岸のそばにあるマンションの1室で仕事をしていた。たまに外に出ては海沿いを歩き、飯を食い、夕日を眺めたり、タトゥーを入れてもらったりしていたが、最後の4日は何とかして予定を空け、どうしても「呪われた山」とか仰々しい別名で呼ばれているらしいアルバニア北部、コソボとの国境あたりにある山地を見て回りたいと思っていた。そのために登山靴を荷物に忍ばせてきたといっても過言ではなかった。

 しかし単身で海外で登山、というのはかなり危険が伴うし、ハードルが高い。かといってコーマン湖をフェリーで回りヴァルボナからテスに抜けるガイド付きのシュコドラ発ツアーも、日程の長さと、ドゥラスからシュコドラまでのバス移動など鑑みると、あとの飛行機に間に合わないため参加できそうになかった。しかし、ここまで来て、あと5日もすれば日本に帰ってしまうのに、とどうしてもあきらめきれなかった私は、ティラナ空港で車を借り、テスまで車で直行、1泊2日で周辺の山を散策し、ドゥラスまで戻り、宿を引き払って荷物を回収、車で空港に行き、車を返して飛行機に乗る、といういかにも強行突破という感じのスケジュールを組んだ。あらゆるリスクがあることは承知していたが、ここまで来たっていうのに今行かないと後悔するぞ、という自分自身に対する脅迫観念もあったと思う。
 そんなわけで早速ティラナの空港でレンタカーを予約した。

 空港の駐車場には何店舗かレンタカー屋の出張所のようなものが軒を連ねていたが、ネットで検索して比較的まともな評価のついたレンタカー屋の中で一番安い店に決めたためか空港からは距離があるようで、スタッフが空港まで迎えに来てくれることになっていた。比較的まともな、といったのは、ほとんどの店のレビューは星1で、高評価なんて生ぬるい店はなかったからである。

 決行当日、ドゥラスからティラナ空港まではバスで一時間くらい。本数がかなり少ないため、少し早めにバス停に向かった。しかしバス停といえどちょっとした駐車場にしか過ぎないので、看板や行先表示などもちろんなく、どれが自分の乗りたいバスかを見つけるのに時間がかかり、「このバスがそうだ」と教えてもらった時には、小さなバスに列ができていた。私の一人前で満員になってしまい、もう乗れない、といわれたものの、私の方もレンタカー屋との待ち合わせ時間があるので、「どうにかして乗せてくれないか、立ってでもいいから」とお願いすると、おじさんが風呂場にある小さい椅子のようなものを出してきて通路に座らせてくれた。途中で降りた乗客が、「空いたから座りな」とでも言うように、自分の座っていた席を指さした。

 空港に到着してレンタカー屋との待合場所付近に向かう。少し早めに到着したので外にあるカフェでカフェラテを頼み、待ち合わせ場所が見られる席にすわった。約束の時間を過ぎてもレンタカー屋のスタッフと思しき人物はなかなか来ないので、まあこんなものか、とカフェラテをゆっくり飲む。しかし飲み終わって店を出て、待ち合わせ場所の前にいてもやっぱり来ない。本当に来るんだろうか、と不安になって「9時に予約した○○です。空港のKFCの入口の前のミーティングポイントにいるのですが」と電話すると、「わかった、今から行くからそこで待ってて。10分くらいだ」ときた。この時点でもう15分過ぎているのだが、欧州で気の長いヨーロッパ人を見てきた私は、またしてもそんなものか、と思うしかなかった。というか、ここではそんなことで腹を立てても仕方がないのだ。だったらもういっそのこと、待っているというよりむしろコーヒーを飲むなり本を読むなりして、「私はこの時間を楽しんでいるのだ、だからいくら遅くてもかまわない」と思う方がよいような気がして、いつもそう思うように心がけてはいるのだが、心がけているうちは本当のところそうは思えていないということで、しみついた感覚というのはなかなか放れていかないものである。しかしまあ、日本国内では容易に達成可能であろう、公共交通機関を使った時間キッチリの、できるだけ多くの観光地を回る旅行なんてものは多くの国では出来ないし、むしろその方がゆとりがあって幸せだ、というのがいつしか私の意見になった。待ち時間に待ち時間のことについて考える、ということをしていると、レンタカー屋のスタッフは悪びれもせず歩いてやってきて、「じゃあ行こうぜ、アルバニアに来て何日?」と世間話を投げかけながら歩き出した。てっきり送迎車で来ると思ったのでまさか歩くことになるとは驚いたが、そう言われると「もう3週間くらいいて、ここは最高だ」としか出てこなかった。

レンタカー

 貸してもらった車はやや古めかしいヒュンダイだった。エンブレムも取れて無くなっており、日本的に言うとボロい部類に入るが、もっとボロボロの車も珍しくないので気にしない。マルタで借りた車はサイドミラーのカバーが片方なくなっていた。多少ボロボロの方が、気負わなくて済むのでありがたい。「アルバニアで韓国メーカーの車を借りる日本人、あんまりいないんじゃないか…」などと思いつつ、順調にまずはシュコドラ(多くのヴァルボナとテスに向かうガイドツアーの出発する場所)を通過した。昼頃にはテスの村に着いて明日の本番に向けて軽い散策ルートを歩いておきたかったので、道中ゆっくりというわけにもいかなかった。しかし何にしろ、テスの村に入るまでの山道は車道もかなり狭く、終盤はかなりの峠道なため戦々恐々としながらできる限りの安全運転で向かうと、ナビでは3時間半と出ていた道に5時間近くもかかっていた。

宿の駐車場への道

 何度か道に迷って周辺を歩き、看板をたよりに宿を見つけチェックインした途端、無事に到着した安堵と、朝から何も食べていなかった空腹と、さっそくこの美しい村を歩かなくては!という焦燥感が脳を支配して、休憩もそこそこに登山靴に履き替えるとホテルに来る途中で見かけた大きそうなレストランで遅い昼食を取った。

ピーマンのピラフ詰めのようなもの。ベラトでも似た料理を食べておいしかったのでリピート。今日は車に乗らないので安心のビール。

ホテルから往復1~2時間くらいの滝。透明度がすさまじい。
テスの村

昼食の後ひとしきりあたりを散歩して、明日のためにそろそろ休もうか、と思い始めたとき、そういえば宿でも食事を取れるというようなことをチェックインの時に言っていたな…と思いだし、ホテルの亭主に「夕食はここでも食べれますか」と聞くとメニューを渡された。18時くらいだったにもかかわらず、「すまないが今日はもう遅いので、メニューのほとんどは作ることができない…野菜スープなら用意できる」と言う。確かにこんな山奥で、薄暗くなってきてからいきなり飯があるかなどと言ったことがなんだか恥ずかしいことのような気がしてきた。「大丈夫大丈夫、こちらこそすみません」と野菜スープとバケットをもらうことにした。

野菜スープとバケットとビール。右は朝食

 明日は山に登るつもりなので、往復して帰ってくるまでの間、車をホテルの駐車場に置かせてくれないだろうかということ聞きながら、グーグルマップを見せた。ここで冒頭の誤ったルートを選択してしまったのだった。
 前述の通り、テスの村の南にあるホテルからグーグル検索などでヴァルボナ-テスの頂上への道順などを調べてしまうと、このルートが真っ先に出てくる。

で、なおかつ北にある道もかなり人気の登山道であることは調べていて知っている。となると、こういうルートを取れるんじゃないか、と思う。

 上の道を往復するより時間も距離も短く済み、良さそうに感じる。

 ホテルの亭主にもスマホの画面を見せ、何時間くらいかかりそうか、なんて聞いてみると、「君は若いから、4-5時間くらいなんじゃないか」とグーグル先生のおっしゃる通りのことを言うのでますますこりゃ良さそうだ、ということになる。

 車を昼過ぎごろまで駐車場に置かせてほしいということにも快く了承してもらい、夕飯を食べながらスペイン人の老夫婦と少し会話をして、シャワーを浴びて就寝。

 翌朝の朝食の際に亭主にも挨拶とお礼を告げ、宿を出た。亭主は今日は、日本語がびっしり書かれたTシャツを着ていた。日本人が泊っているから着てくれたのかと思うとちょっとかわいかった。

 で、意気揚々と下のルート、つまり冒頭の黄色のルートを西から東へと進み始めたわけだ。最初は地元の人も良く使っていそうな道があり、看板もある。道はどんどん山へ入っていき、30分ほどだろうか…突然広場のようなところに出る。そこから急にどこが道なのかわからなくなる。広場につながっていそうなのは来た道一本だけで、それっぽい茂みの切れ目はどれも行き止まりだった。

 そんな折、広場の一辺に積まれた石塀の向こうに、人一人くらいなら通れそうな、ぎりぎり"道"とも呼べるかもしれない隙間を発見した。その脇に、おそらく生活用水用の、新しそうなホースが通っている。なるほど、このホースをたどっていけば一件でも民家か、野ざらしのカフェ・バーか、とにかくだれか、地元の人のいるところがあるだろう、と思い、これをたどることにする。とにかく迷っては大変なので、このホースだけは何があっても見失わないぞ、ということを心に決め、"道らしきもの"を上っていく。

 途中ガレ場があったりしつつも、ホースは常にわかりやすく見えていた。

 依然"ちゃんとした登山道"とは程遠い状態、というよりは、進むたびどんどん悪化している気もして、人の姿も気配もないので、「やっぱり引き返すか…」という思いと、「もうちょっとでちゃんと道っぽくなるかもしれない…」というよろしくない期待のまま、行ったり来たりを繰り返していたと思う。途中はほぼ獣道のようなものだった。

 浅学ながら少しだけ登山についての知識があったので、この時正常性バイアスがかかっているな、とも自分で感じていた。行ったり来たりを繰り返していたのは、引き返せなくなって身動きが取れなくなることが一番怖かったからで、常に戻れる道かを毎回確かめていたためだった。意識していてもなお、早々に戻ることはできなかったのだから、正常性バイアスとは恐ろしいものだ。

 幸い電波はあったので、グーグルマップで道を確認し、この辺の道のはずだということを確認しては進み、戻れるか確認し、また進み、しばらくすると現在地が道から逸れてきて戻り…。

 結局2時間くらいかけて、ホースの先端、出どころにたどり着いた。行きついた先は、民家でも、野ざらしのカフェ・バーでもなんでもなく、滝つぼだった。下にある村の端まで、ここから水を引いているのだ。

 見上げると、かなり高い地点から滝が細々と降りてきていて、あたりには大きな岩がごろごろしている。今にも途切れそうな細い滝の下流だったので、ひょいと飛び越えて向こうに行けないではなかったが、対岸からは斜面が急にきつくなり、これではいずれ戻れなくなるな、と感じた。近場で一番上りやすそうな岩の上に登ると、そこからは山あいにある村が見えた。それがとても小さかったものだから、「ずいぶんと登ってきてしまった。そうだ、僕はこの滝を見に来たんだ。引き返そう」と突然すっきりした気持ちになって、今ここをゴールと決め、元来た道をホースを頼りに戻っていった。今考えるとそれまでかなり恐ろしいことをしていて、全然意味がわからないが、道がある、と思い込んでいたのがすべての元凶だったと思う。そしてあの時進まなくて良かった、北の登山口からやり直そうと決意できて良かった、とも。

比較的安全そうだった時に撮った道・・・?

 それから1時間半ほどテスの村の中を南から北に歩いて、テス-ヴァルボナパスと呼ばれる登山道の入口に着いた時に思ったことは、「さっきまでいた場所は登山道でもなんでもなかったな」ということだった。

 北の登山口は、それくらい、あまりにもちゃんとしていた。ルートや、距離、難易度なんかも書いてあるし、道も広いし、人もたくさんいるし、登山前に寄って行けとばかりにカフェだってある。ガレ場を登り、草をかき分け、木の隙間をいき、屈んだりするようなことは、こちらの登山道では絶対になさそうだった。最初に見ておくべきだった。日本ほど整備されていないアルバニアの登山口や登山道がどんなものなのか、という知識がなかったのも要因だったように思う。

 私がさっきまで「道、かもしれない…」などと信じようとしていたものは何だったのか。よくわからない。まぁ、たぶん人力で通したホースだと思うので、登った地元民がいたのは間違いないだろうが、少なくとも旅行者が通るような登山道では決してなかった。

 そしてこのちゃんとした登山道の入口に立っている案内を見たとき「あ、これはもう、大丈夫だ。よし登ろう」とさっきまでの精神的疲労が一瞬にして消え去ったのを感じた。

ちゃんとした入口にあるちゃんとした案内板たち。

 とはいえ山を彷徨っていた2時間と、そこから北の登山口に向かうまでで当然ながら体力は消耗しており、元気よく登っていくドイツ人カップルを横目にゆっくりのそのそと登り始めた。自然あるところにドイツ人あり。同じ宿の団体客もドイツ人で、私が1か月前までミュンヘンにいたというと大変驚いていた。
 登山道の景色はずっと素晴らしく、たまに視界が開けては感動しっぱなしであった。

 途中にあった、いかにも手作り感のあふれるカフェ・バーで水を買うと、「どこまでいくのか」と店主に聞かれた。他にも何か聞かれた気がしたが、ものすごく訛っていて聞き取れなかった。

 「頂上まで行って、また戻ってくる。帰りにも寄るよ」と伝えるとまた何か言われたがやっぱり何もわからなかった。申し訳ないと思いながらもてきとうに相槌を打ちながら、「頂上まで何時間かかる?」と聞いてみるとなんとか2時間とわかった。ありがとう、またあとでねとその場を後にした。

 次に登山道沿いにあったカフェは、突然のことで驚いたが、なんともおしゃれな山小屋風のしっかりとした建物だった。

登山道で一番にぎわっているカフェ

 ここで食べたケーキがあまりにもおいしかったなと後で思い出したため、ケーキの名前や値段を控えていなかったことを後悔したが、おそらくコソボあたりの山間の郷土料理でフリアと呼ばれるものであるとのことだった。飲み物を買った時に、一緒にケーキはどうだ、出来立てだよ、と勧めてくれた店員さんに感謝した。

疲れた体に染み渡るやさしい甘味。ほんのりあたたかい。


 降りてくる人に「あとちょっとだよ!」と励まされたり、逆に「あと何分くらい?」と聞いてみたりしながら、実際に頂上に到着したのは、本当にきっかり2時間後くらいだった。

 頂上にはルート案内の看板が立っていて、ここから向こうへ続いている道はヴァルボナへ行く下り道。そして、私がたった今来た道を下るとテス。頂上の尾根の中でもひと際高い突き出した岩に上り、ヴァルボナの方を見渡す。この時の景色は、何と言ったらいいのか、月並みだが、人生で忘れられない景色のひとつだ。見渡す限りの山、それも樹木帯と低木と岩山が点在して模様になり、その隙間を縫うように白い川か、沢かわからないが、くっきりと流れを作っているのが見える。あまりのスケールのでかさに思わず笑ってしまうほどだ。

 追い越し追い越され、同じようなペースで登っていた人もいて、すれ違うたび挨拶するうちに顔を覚えた女性と偶然頂上で一緒になった。

 目が合って二人とも笑顔になり、やぁ、と声をかけられたので、「私たちついに到着したね」と言うと「I'm so happy for you too!」と言われた。その言葉と笑顔にうれしくなって、「me too!」と返した。「for you too」の部分のニュアンスをどう日本語にすればよいのかいまだにわからないでいることは置いておくとして、それにしても、達成感に満ち溢れていたこの時に、本当にうれしい気持ちを共有できた人がいたことは幸いだった。

 一人でぶらぶら旅行していると、うれしい時や楽しい時、美味しいものを食べた時、誰かとこの気持ちを分かち合いたい、という瞬間はまあまあある。それでも一人の方が良いと思う瞬間もあるから、だからこそ、一人で行った先で偶然居合わせた人たちと、たしかに同じ気持ちを共有していたと感じる瞬間というのは、いつまでも心に残っていたりする。どこの誰ともわからないが、たぶん彼らのことはこれから先も、記憶の中から取り出しては眺めるように思い出したりするのだろうと思う。そしてまた、あの時の気持ちを味わえたら、と考えてしまうのだ。

 さて、もういっそこのままヴァルボナまで下ってあと3泊くらいしてしまいたかったが、テスのホテルに置いてきたレンタカーの時間も、ドゥラスの宿と荷物も、飛行機の時間も、予定を変更するにはいろんなものをどうにかせねばならなかった。

 来る前は、せっかくここまできたのだから、行きたいところに行かなくては損だ、とまで思っていたのに、いざ来てみると、ここまで来たんだから次はもっと簡単に来れる。ヴァルボナでののんびりとしたステイは、人生のあとのほうに取っておこう…と思うようになっていた。それに、次はコーマン湖のフェリーにも乗りたいし、と。もしくは、そう言い聞かせるようにして、名残惜しくも頂上に別れを告げた。

 

 帰り道は逆に自分が「あと何分くらい?」と聞かれたり、「カフェってもうすぐ?」と聞かれたりして、そのたびに「もうちょっとだよ」とか「15分くらいだよ」とか答えていたが、登りと下りのスピードは当然ながら違うことに途中から気づいて、ちょっと短く言い過ぎたかもしれない…と少し後悔したりした。

 

 行きに立ち寄ったカフェ・バーに宣言通り帰りも寄ってみると、おじさんが笑顔で出迎えてくれた。特に何も話してないから(訛りが強くてわからなかったし)これには結構驚いたが、ジュースを一本買うと、ここに座って飲んで行けよ、とブルーシートの屋根がかかったどう見てもおじさん手作りの、丸太を半分にした長テーブルとベンチに腰掛けてタバコを吸い始めた。「お、灰皿がある」と思った私は「僕もここで吸っていいですか」と聞くと「なんでダメなんだ?」と言った。私はなんとなく、どう見てもアジア人で、日本人かもしれない私が、アジア人の全くいないアルバニアで、外でスパスパタバコを吸うのはいかがなものかと思い我慢していたところがあったので、灰皿というのは本当にありがたかった。ほとんどのヨーロッパの国々では外ではどこでもタバコを吸って良かったから、携帯灰皿を持っていたし、割と吸っていたのだが、アルバニアではなぜだか恐縮していた。

 煙草を吸いながらおじさんが話してくれたことは、よく聞き取れない部分が多かったが、「ここは良いところだろう。このバーをどう思う?全部俺が作ったんだ。金がないから、こんな材料しかなかったが、なかなか良い出来だと思わないか。若い時は下の村にいたんだ。なんで下の村からここまで来て商売していると思う?ここにはポリツァイ(警察)がいないのさ!」というようなことだった。何か怪しいことでもやっているのかと警戒したが、別に悪そうな人でもないので、一緒になって笑うしかなかった。それから、「呪われた山」の本体…の頂上である「マヤ・イェゼルツァ」にも行ったことがあると写真を見せてもらった。積雪の中、サングラスやらニット帽やらフードやら防寒具で誰だかわからなくなっているおじさんの写真を見て、「かなり難しかったんでしょうね」というと「そりゃそうさ」と誇らしげな表情だった。

手作りのカフェ・バー

 予想外におじさんと長話をしたりして、宿に着いたのは16時過ぎだった。「テスからシュコドラまでの峠道を明るいうちに抜けるのは無理だろう」と下っている間ずっと考えていた。

 宿に戻ったらもう一泊できるか聞こう、出来なかったら車中泊でもなんでもしよう。明日の朝早くにここを出発すれば、見たかった「ブルー・アイ」にも寄れるじゃないか、と。

 宿に着いてさっそく、「車を置かせてくれてありがとう」と亭主に話しかけると「どうだった?問題ないか?」と聞かれたので「最高の景色だった!ひとつ質問が。今日泊まれる部屋ってありますか?」と返すと「あるよ。見る?」という。ありがたい。早速別棟の二階にある部屋を見せてもらい、「パーフェクト」というと「オーケー。荷物を置いたら降りてきて。コーヒーを淹れるよ」と階段を下りて行った。

 コーヒーをもらいながら、夕飯のことについて尋ねると、まだ間に合うという。この辺りの物価からするとちょっと高い気もしたが、日本語Tシャツを着てくれている亭主のためにここはひとつ「今日はでかい肉を食べたいです」と一番高いメニューをさすといい笑顔でサムズアップしてくれた。Tシャツには「美しい街をつくりましょう。渋谷警察…渋谷は東京の街……土木技術…美化を推進。」などと書かれており、たまにおかしな漢字があった。謎のTシャツだ。
 少し休憩して、夕飯に指定された時間に降りていくと、「もうすぐできるよ」という。じゃあそれまでビールでも、と飲み始めたら、ドイツ人団体客のガイドをやっているというコソボ人の男性2人に「君が日本人だと聞いたんだけど」と話しかけられた。「そうだよ」というと、一人は興奮した様子で「ワッツ・ユアネーム」と繰り返しながら、これと同じことを日本語で言ってくれ、という。「あなたの名前は何ですか?」と日本語で答えるとたいそう盛り上がった。なんだ?と思っていたが、一人は日本のアニメファン、一人はゲームファンのようだった。あとになって、たぶん「Your name.」で「君の名は。」と言ってほしかったのだろうと気が付き、なんで盛り上がったのかさらにわからなくなった。もう一人は、ゲームの「ゴースト・オブ・ツシマ」をやったので、「サムライとか武士」に興味がある。日本のどこで学べるのか。あんまり有名じゃなくて、人が少ないところがいい。と言われ、鹿児島の武家屋敷と言ってしまったが、いささかいろいろな場所から遠すぎたような気もする。これがニンジャなら甲賀とか言うのだが、サムライについて学べる場所というのは難しい。日本刀や甲冑を美術館で見るのとは違うだろうし…。ゴースト・オブ・ツシマは僕も大好きなゲームなので共通の話題が出来、そこからそのうち日本語Tシャツの亭主も来て、呪術廻戦を見ているとか、ドラゴンボールを知っているかとか、日本のことについて話していると、みんなそれぞれ自分の仕事に戻らなければならなくなったようで「いつか日本に行くよ」と去っていった。

 これは確かタトゥー屋の主人に聞いた話だが、アルバニア人が日本に来ようと思うとかなりハードルが高いらしい。ビザの申請が大変なんだそうだ。中国へはビザがなくてもいけるらしい。いつか東京に行ってみたいけど、難しいよ、と言っていた。ベラトで泊まったホテルの主人の弟夫婦は去年日本に行ったと言っていたから、大変だったのだろう、と後で思った。まあ、ヨーロッパでよくある多重国籍とかで、ビザがなくても日本に来られる国のパスポートを持っているのかもしれないが。

 ちなみに夜ごはんの肉はでかくて食べ応えがあって最高だった。運動のあとの肉、うますぎる。


翌日、朝ご飯を食べ、もう一度亭主にお礼を言って、夕飯とホテル代のお会計をしてもらうと、昨日飲んだビール代を一本まけてくれるという。申し訳ない気もしたが、ここで断っては嫌な気持ちにさせてしまうかもしれないと思い、「本当ですか、ありがとう」と言ったら、「日本語でグーグルマップにレビューを書いてくれ」と言われた。オマケしてくれなくても全然☆5で付けるよ。

 

 1泊延泊したおかげで、テスの村の近くにあるブルー・アイ・カパに行くことができた。車で近くの駐車場(有料)まで行き、そこから40分くらい山道を歩く。
 「穏やか」と日本語で書いたTシャツを着た人が目の前から来たから、既視感を覚えつつも「やあ、日本語のTシャツだね!」と声をかけてみた。「え!あなた日本人なの?」「そうだよ、いいTシャツだね」「今日本語を勉強してるんだ、いつか日本に行きたくて」「すごいね、ぜひ来てね」「僕はアブラハムです」と自己紹介され、流れで握手をした。

 途中で青い川があるから、「これか!たしかに青いな」と思っていると、もう少し先が本物のブルー・アイだという。

これではない

 

こっち
ブルー・アイ・カパ(無加工)店員さんが特等席を教えてくれた(右)

 イタリアのカプリ島でも、クロアチアドゥブロヴニクでも、青の洞窟とかといわれている海を見に小舟に乗ったが、これまで見たどの「青の」と形容詞のつく景色より青かった。

 ちなみにブルー・アイ・カパの滝の向いにいかにも、これまた手作りの階段とテラス席などがあり、飲み物を買える。こんな山奥にどうやって物資を運んでいるのか、と疑問に思っていたが、帰りに缶コーヒーやらなんやらを背中に満載にして歩くロバと、手綱を持つお兄さんとすれ違って謎が解けた。ここでは何よりもロバの方が早いだろう。
 テスに着いた日に宿で喋ったスペイン人の夫婦にも帰りにすれ違って、「ブルー・アイ見てきた?どうだった?」と聞かれて「すごいブルーだった。あれはヤバイ」と言ったら陽気な奥さんが「楽しみ!」と言って、もう会えるとも限らないのに、「またね」と手を振った。それはとてもいいなあと思って、僕も「またね」と返した。

 それからはテスを後にし、途中で極楽のようなレストランに寄ったり、ドゥラスの宿の駐車場でトラブったり、バザールを見に行ったりしたが、その内記そうと思う。今はここまで。

極楽のようなレストラン
クルヤのバザール

アルバニア航空の飛行機

ドゥラスからアドリア海をフェリーで渡りイタリアの”かかと”バーリにいったり、バーリからアルベロベッロまでバスで行ったらギリシャ人のおじさんと一日ふたり観光することになったりしたのでそのこともいつか記録したいなあ。

ドゥラスのフェリーターミナル
フェリーとか、バーリとか、アルベロベッロとか




北海道12日間

走行距離 約2875km
給油量 約95.6L
燃費 約30km/L

 

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−行程−
9/14 京都〜敦賀港→

9/14 - h’s blog


9/15 →苫小牧

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9/16 苫小牧〜白老〜日高幌別〜士幌高原

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9/17 士幌高原〜帯広〜釧路〜厚岸〜根室

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9/18 根室〜標津〜知床半島〜網走〜佐呂間

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9/19 佐呂間〜紋別〜猿払〜稚内

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9/20 稚内〜天塩〜羽幌〜留萌〜石狩

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9/21 石狩〜小樽〜積丹半島倶知安喜茂別

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9/22 喜茂別洞爺湖〜函館

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9/23 函館〜ニセコ〜札幌

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9/24 札幌

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9/25 札幌〜支笏湖〜室蘭〜洞爺湖〜小樽

9/25 - h’s blog


9/26 小樽→舞鶴〜京都

 

帰着

あとがき

 なんか、好きに生きていいんだ。
 たったの12日間ではあったが、1人で北海道を一周して思ったこと。当たり前だけど、人生で初めて行く北海道に知ってる人なんかまずいなくて、それでも、いつもより人と話したような気がする12日間だった。コンビニの店員さんから、道の駅のおじいちゃん、スーパーのおばちゃんから、地元のライダー、ひとり旅の人や、居酒屋のお姉さん、ライダーハウスで出会って仲良くなったみんな。両手両足では足りないくらい色んな人とたくさん話をした。その中でお互いの名前を知っている人は片手とすこし。でもすごく楽しかった。時には友達にも喋らないようなことも話した。どんな人で、人と何が違くて、何を気にしてるかなんて、関係なかった。偶然ここで出会ったから、僕たちは話している。経緯はそれぞれあるにしても、この瞬間、この場所に重なったから一緒にいる。それだけだった。

 天気のいい昼すぎ、一人で走っている時、思い出す。忘れていた。あんなに、ずっと、ところ構わず、もしかしたら永遠に続くのかもしれないと思うほど苦しかったはずのもの。だからどうしたとでも言うように、空は広く、海は穏やかで、山は大きく、どこまでも道は遠く続いていた。ああ、何でもないんだ。自由でいいんだ。そもそも何者でもないのだから、好きにしていいんだと、大空と、広い大地が、教えてくれていた。
 ぜんぜん気にしないということは無理だろう。色んなことに負い目を感じて生きていくのも確かだろう。でも僕は、それ以前にでかい世界の中に立っているだけの、人間だ。それだけは何も変わらないのだ。

 どうにも分からなくなったら、深呼吸して、あの大きな世界を思い出そう。青い空に呑まれるように、透きとおる海に沈むように、ゆたかな山々に包まれるように、そしてまた気が付くのだろう。全てが自分の力でなくっても、この世界に、ちゃんとまだ、立ってるってことに。

 あー、はずかし。

9/25

 周りの人が起き出す気配で僕も起きた。良い天気だ。僕はこのまま単車で1時間半ほどの小樽に行ってフェリーの時間までブラブラしようと思っていたのだが、室蘭に行っていないことを大先輩に言うと、「じゃあ室蘭に行ってきたらええよ。支笏湖通って、室蘭の先の地球岬まで行って、洞爺湖回って小樽帰ってきたらええくらいちゃうかな。小樽に1日おってもな」ということで急遽300キロほど走ることになった。

 この日はみんな8時には外に出て荷物を積んでいた。スーパーカブの彼が一番に出た。そのあとGLが大きな音とともに去っていき、ぼくもその後を追いかけた。支笏湖までは、地元のライダーが群れをなして走っていて、その最後尾について行くと、湖を半周するような形で南下した。支笏湖は大きく、また綺麗だった。北海道の湖という湖の水はほとんど綺麗なのだが。初日に通った白老の海辺の道をずっと南下し、地球岬に到着した。展望台は工事で上がれなくなっていたが、柵のギリギリまで身を乗り出してみると、遠くの海がなんだか丸く向こう側に飲み込まれているような感じで、地球が丸いというのを教えてくれているようだった。室蘭から北上するには湾を渡るおおきな橋があったが、通行止になっていて、湾をぐるっと回らなければならなかった。すぐに洞爺湖に差し掛かって、中山峠を越え、休む間もなく朝里のダムまで走った。峠を越えて見えてきたそのダムは驚くほど大きく、大自然の中にコンクリートが剥き出しの壁で水を堰き止めていた。裏側は公園のようになっていて味気なかったが、南側から見るダムは北海道でも最も素晴らしいところの一つだと思った。

 フェリー乗り場に到着し、今日の夜のチケットを買って、単車を置いて小樽の街に出た。古い建物が多く、どれをとっても雰囲気のある、石造りの街だった。昔栄えていたころの面影が伺えた。地元の名店だという揚げ鳥屋のざんぎ定食を大盛りで食べた。

 最後になったが、セイコーマートのカードを作った。もう北海道を出るのに何のためにというと、また来たいと思ったから、としか言いようがなかった。そろそろ船の時間だ。埠頭まではバスが出ているらしいので、だれも乗らないそのバスにひとりさみしく乗車して船に乗り込んだ。五階建ての船のデッキから見る小樽の街は、なんだかあっけなかったが、雪国らしいオレンジの街灯に哀愁とでもいうべき懐かしさがあるような気がした。その時急にあー、本当にここを去るのだ、と思った。京都に帰る、というより、北海道を出ていく、という気持ちだった。来た時はお邪魔します、と思ったのに不思議だ。ありがとう、なんだかずっと楽しかったな、また来るよ、さよなら。

9/24

 起きると良い晴れの日だった。昨日の雨で疲れていたものの、少々単車に乗りたくなりながら、市街地を目指して歩いた。すすきのまでは歩いて30分ほどだった。

 旅の間に聞いた美味しいスープカレー屋や、有名なラーメン店なんかを横目にしばらく街を歩いた。途中明日明後日着るための服を1セット古着屋で安く買って、裏路地にあるスープカレー屋に入った。怪しげな建物の中にあるスープカレー屋だったが、聞いていた通り人気らしく、常に人が出入りしていた。おすすめで、あまりメニューに出ないというラムスープカレーを注文した。ジンギスカンは先日食べたが、煮込まれたラム肉の塊は柔らかくてまた違った美味さだった。ほどよく味付けされたご飯と、上に乗った半熟の目玉焼きと共に食べたそれは絶品だった。食後にこれまた美味いラッシーを飲み、また札幌観光に出かけた。

 旅の間じゅうガッカリ観光スポットとして聞いていた時計台はビルの間にポツンと立ったいた。中に入るか少々迷ったが、せっかく来たのだからと入ってみた。中は資料館のようになっていて、置いてあった本や資料、歴史のパネルに満足して、一階の図書館で北海道地名にまつわるアイヌ語、という本を読んでいるとかなり時間が過ぎてしまった。

 ひとしきり観光し終わって宿に戻ると、客が増えていた。もう北海道も10回目だという大先輩に、20年ぶりにツーリングに来た中年男性、同い年のライダーがいた。僕はこのあとまた一階の居酒屋に行くつもりだったが、同い年のライダーとバスですすきのに出かけることにして、いい飲み屋を探しながら夜の繁華街を歩いた。彼はスーパーカブで埼玉から青森まで陸路を使い、北海道の西半分を回って今日稚内から戻ってきたようだ。あとで彼の愛車を見せてもらったが、日本一周と書いてあるわりに軽装備なので業者と間違えるくらいだった。聞けば、日本一周は小分けでしているらしい。そう考えると、僕も東北地方を除けば小分けで日本一周している気がした。来年からは営業マンだという彼と安い居酒屋を探して飲み、いい具合に酔ったころ、歩いて宿に帰った。

 大先輩は23時にすすきのでソープを予約しているらしく、そそくさと出かけて行った。

僕は今日1日久しぶりに歩いたのでもう疲れて、日を跨ぐ前に眠った。

9/23

 この日は朝から雨が降りしきっていた。もう1人の客が出たころ、小雨になったので荷物を積んで、近くの港から午後の船に乗るという同郷の先輩と別れて僕は札幌を目指した。50キロほどは昨日と同じ道を北上する形だ。長万部からニセコ倶知安を通り、余市、小樽とまた海沿いに戻った。蘭越のあたりで雨は止み始め、小樽から札幌に向かうころには目の前の空に縦の太い虹がかかっていた。札幌に着いたのは暗くなってからだった。夜の札幌はネオンが輝いて、大通りの往来は激しく、路面電車もバスも走っており、僕は怯えながら大きな荷物を積んだ単車を走らせた。
 宿に着いて電話をかけると、管理人が二階から降りてきた。今年は台風の影響もあってか、ライダーが上がるのが早いらしい。この日は僕一人だったので、「好きに使っていいよ。なんなら札幌観光するのに連泊したらいい。バイクもガレージに入れといて大丈夫だよ」と言ってくれた。

 一休み入れてから、一階の居酒屋に飯を食べに行った。若い女性と、大将だけだった。酒とつまみのセットを頼んで食べていると、あとから女性の友人、高齢のおじさんと、キャバクラのキャストだというひとが来た。北海道にずっと住んでいるという女性ふたりとはなぜか人生の話をした。僕はなんだかあまり興味がなく、そんなものか、と思っていた。大将に道産のトウキビ(とうもろこしのことだ)や大きなシシトウ(これはもうピーマンと言った方がいい気がする)をサービスしてもらい、しかし酒も入ってくると話も盛り上がるもので、どうしてかこの若いキャバクラのキャストの年齢が知りたくなって、嫌がるかとも思ったが、割と乗り気で少しずつヒントを与えてくるのですぐに35歳だということがわかった。正直30歳行かないくらいだと思っていたので驚くと、「彼にビール」と僕は4杯めをいただくことになった。彼女らの出身であるという小樽の話や、僕の身の上なんかを話していると、宿の管理人が入ってきた。「お世話になります」と乾杯し、"とーちゃん"と呼ばれた管理人は「これライダーに差し入れ」と北海道限定、ソフトカツゲン乳酸菌飲料だ)を机に置いた。「朝飲むと元気が出るよ。冷蔵庫にしまっとけ」「こっちはやらねえからな。俺が好きだから」とリボンナポリン(これも北海道限定の炭酸飲料)を見せた。その仕草がカッコよくて面白かった。話しながら飲んでいると、19時に居酒屋に降りたはずが23時になっていた。僕はこの頃早寝早起きが基本だったので眠たくなって来て、居酒屋にいた人々にご馳走様と礼を言い、お会計をして二階に戻った。

 一人だったので置いてあった銀マットや寝袋を3枚ずつ使ってフローリングの上で寝た。

9/22

「かかさんが、ご飯先に食べて、寝るなら二度寝にしてくれって」と起こされた。
朝飯もそれは美味しくて、僕たちはみんなそろってご飯をおかわりした。ゆうくんに後ろ髪を引かれながら出発の準備をして、また来ると約束した。昨日知り合った同郷の先輩である客が「今日は函館まででしたよね。途中まで一緒に走りますか」と言うので、一緒に出ることにした。校舎の前まで、かかさんと、もう1人の客が見送ってくれた。ホンダのビートに乗っていた。僕ら2人と自転車に乗ったゆうくんは前の道路まで競争し、大手を振って小学校をあとにした。何度か休憩をし、どこを走るか、と相談しているうちに僕たちは函館まで一緒に行くことになった。
洞爺湖のほとりをわずかにまわり、大沼と小沼の間の道を抜けて、駒ヶ岳をうしろに奇妙な小島がぽつぽつと浮かぶ沼の前で休憩をとった。
 函館までの海岸線はこわいほど風が強く、しかし僕達は長い直線道路を吹きさらしで走らねばならなかった。ハンドルを少しだけ左に切り、風に当てるように傾けて走った。建物の影やトラックを追い越すたびに風の波が僕達を襲った。しかし、なんといっても、信号待ちや、コンビニ休憩で話せるのは新鮮で、この日の距離はいつもとたいして変わらなかったが短く思えた。前を走る昨日知り合ったばかりの連れに「休憩に入ろうか」という合図を貰うたび、距離を確認しては「もうこんなにも来たのか」と驚いた。

 函館のライダーハウスについた。宿には誰もいなかった。にぎやかな絵の描いてあるシャッターの前に並んで単車を停めると、すぐに管理人らしき中年男性が猫とともに出て来た。荷物を宿に置き、ひと休みしたあと、路面電車に乗って同郷の彼の知っているジンギスカンの店に連れて行ってもらった。五稜郭タワーの近くの、カウンターのある小さな店で、女将さんも気さくな女性だった。

 彼は北海道に入ったその日にこの店を別の人に連れて来てもらったらしい。照れくさそうに「また来ちゃいました。彼がジンギスカン食べてないそうなので」というと、「あら、それはウチの食べたらよそに行けなくなるね」と笑った。初めてのラム肉に感動していると、「本州の人にそんなに喜んでもらえると嬉しいね。臭いっていう人もいるから」とラム肉のソーセージを2本ずつサービスしてくれた。「とんでもない!めちゃくちゃ美味しいです」というと、「じゃあ、今度は誰か連れて来てもらわないと」と笑っていた。函館まで友人を連れてくるのは大変そうだ。「また、北海道来たら寄らせてもらいます」、と女将さんを交えて楽しい食事を終え、酒でいい気分になりながら店を出ると、雨が降り出していた。

 多分もうかなり酔っていたと思うが、僕達はまた路面電車に乗って終着駅の地元で有名だという赤茶色の温泉に入り、それがあまりにも熱かったので2人とも逆上せて足をふらつかせながらまた酒とツマミを買って、冷たい風の中、宿に戻った。宿には客が1人増えていた。

 3人でまた晩酌をしながら話し、気付いたらみんな寝ていた。

9/21

 寒さで目が覚めた。昨日は暖かそうだったこのログハウスも、浜辺だからか、目張りしてある隙間のこれまたわずかな隙間からも冷気が入り込んでいた。気が付いたら朝だ。外に出てみると、案外いい天気だった。石狩川沿いの静かな住宅街を抜け、積丹半島まで海沿いを走った。小樽の街を見た。苫小牧からは敦賀までのフェリーが出ているが、小樽からは舞鶴までだ。僕は帰りの便は小樽から出る船にしてその日に街をじっくり見ようと通り過ぎた。海沿いの道は海岸線が入り組んでおり、トンネルが多かった。積丹半島に差し掛かると、海がどんどん青く、浜辺の水が透き通って海底が透けていくようすがわかった。余市の町を通った。神威岬は快晴で、観光客で賑わっていた。岬の先までは往復一時間歩かねばならないらしい。単車を降りて女人禁制の門をくぐり、険しい山道を半刻歩いた。岬の先には灯台が立っていた。ここは、最も航海が難しいとされる灘の一つであるらしい。満潮の時期などは荒波で海岸線を歩くのが難しく、波に攫われた先人もいたようだ。亡くなった方の供養にと住民がノミで掘り進んだという小さなトンネルも見た。険しい崖から海を臨むと、それは素晴らしい景色だった。水平線を境に空は白から青く、海は濃紺からそれは綺麗な水色へと変化していた。突き出た岬からポツポツと尖った岩が連なって海から顔覗かせ、波に打たれていた。空には雲ひとつなかった。僕はまた半刻かけて戻った。
 そこからは山に向けて峠をいくつか越えた。ニセコパノラマラインはあいにくの曇り空だったが、久し振りのワインディングで楽しかった。リゾート地を抜けた山の中にある廃校になった小学校が今日の宿だった。途中、道を間違えてとんでもないジャリダートの山道に入ったりしたが、暗くなる前には旧小学校に到着した。何から何まで手作りで作ってあるようだった。「ととさんは今いないんですよ」宿の主人は病気で街の病院に入院しているらしい。他の常連客に案内してもらい、教室の一室に荷物を置いて、職員室と書かれたドアに入ると、そこはカフェになっていた。レコードの暖かい音が部屋に充満していた。暖炉に火をくべて宿の主人の奥さんが帰ってくるのを喋りながら待った。白いワゴンが校舎の前に停まった。「かかさんの車だ」と常連客の1人が言った。何か買い物をしてきたらしい。みんなで手伝おうと玄関まで行くと、小さな男の子がかけだしてきて「来い!」となぜか僕の腕を引っ張った。ととさんとかかさんの末っ子らしかった。ゆうくんと言う。旧小学校の廊下を、小さな車にゆうくんを乗せて押して走り、体育館を全力で一周して、ブランコに乗った。「ゆうくん、あっちいくから、肩車!」といわれ、なぜかゆうくんの船に任命された。僕はハンモックのブランコに乗った男の子の背中を押しながら、疲れ果てていた。校舎の裏の川まで忍者ごっこをしながら走り、長靴を持ってきて川に入った。「お前は今日からオレジな!」といわれなぜか改名し、ゆうくん船長の仲間となり、いや、僕が船なのだが、ゆうくんを乗せてひとしきり校舎の周りで遊んだ。ゆうくんはあとでかかさんに濡れた服を怒られたようだった。受付を済まし、常連客が淹れてくれたものの飲みそびれたコーヒーを飲みながら一服していると、またゆうくんがやってきて、「テレビ見なきゃ!見逃しちゃだめだよ!」と言って僕を自宅の方まで連れて行った。自宅と言っても校舎の中にある教室だ。教室の中で僕たちは子供向けアニメを二本続けて見た。連れてこられて流石に人の敷地なので入るのに遠慮したが、ゆうくんにひっぱられて結局ソファに座ることになった。あとからかかさんが見に来てちょっと気まずかった。そうこうしているうちに、晩御飯の時間になったらしい。同泊するのは5人で、僕以外は以前に泊まりに来たことがあるようだ。

 ここの名物である豚丼を食べ、手作りの木の風呂に入り、晩酌をして、宿泊客のなかのひとりにピアノを弾けるものがいたため、古いピアノから穏やかに流れるジャズを聴き、すごいねえ、と褒め称えながら教室に移動して寝袋で眠った。

9/20

 朝起きると、昨日いた10人のうちの半分は既に出たようだった。僕は昨日から8時起き、9時発を宣言していたので、8時以前に出ると言っていた人々には先に別れの挨拶を済ませていた。階下では、昨日最後まで話していた同い年の奴が今日の計画を立てながら、台風のニュースを見ていた。階段を降りていくと、「いってらっしゃい?」と疑問系だった。「まだ行かんで」「なんや、送り出す準備出来てたのに」そう言ってすぐ、「俺が最後と思ってたけど違ったな。送り出すの寂しいじゃん」と笑った。「一緒に出る?」というと、「9時でしょ?それなら俺のが早いわ」と返されたが、結局テレビでニュースを見ながら話していると一緒に出ることになった。荷物を積み終えるころにはちょうど9時だった。「荷物積むだけで20分くらいかかるよなあ。俺8時半に出るつもりやったんやけどな」「僕は予定通りやな、9時やし」「なにそれ、俺が図られたみたいじゃん」「まぁ、お互い最後の1人にならんくて良かったやん」「たしかに!」そう話していると、朝は見にこないから、勝手に出て行ってくれと言っていた銭湯のおばちゃんが現れた。「君たちが最後?」と聞かれて、「「あっ!」」と2人同時に声を出した。僕たちは一枚ずつ、昨日買い忘れて諦めていたみどり湯のステッカーを買った。そして「それじゃ、お気を付けて。腹減ったなあ」「セコマあるやん、そこに。お気を付けて」なんて笑いながら細道から大通りに出て、時計回りの彼とは反対方向に出発した。
 かの有名なオロロンラインを南下した。空は昨日と澄んだ色の濃い青空とは打って変わって、くすんだ淡い水色をしていたが、雨が降っていないのが救いだった。海沿いの道には綺麗に一列に風力発電の風車が並んでいた。オロロン鳥の像を横目に、陸はそっちのけで海を眺めて走った。休憩に単車を止めた時、ちょうどオロロンラインを北上してきたライダーと会った。「初山別で酷い雨にやられましたよ。そっちはどうでした?」「僕は降られなかったんですけど、ちょっと前に降ったみたいですね。水たまりがあったので。今は大丈夫だと思います」「そう、下るんだったらちょっと待った方がいいかもですね」というので、僕は道の駅で少し長い休憩を取った。喫煙所で稚内から暇つぶしにドライブに来たというおじいさんと、娘だろうか、連れの女性と世間話をしたので、何もないところだったが、暇はしなかった。することがないので、稚内から道の駅によく来ているらしい。
 待った甲斐あってか雨にも降られずに、途中羽幌で飯を食った。緩やかな峠を越え、何度か覆道を通った。日の光が射し込んで柱が陰になっているのがとても綺麗だった。ナビの場所とは違ったため宿への道を尋ねながら、暗くなる少し前には今日の宿に到着した。石狩の浜辺のすぐ近くにある無料のライダーハウスだ。聞いていた通り、小さいログハウスだったが、中は綺麗でいい匂いがした。寒くもなさそうだ。ログハウスの前が浜の砂なので、サイドスタンドが埋もれて倒れないように敷板を探した。前では電線の工事をしていた。周囲にあまりにも人がいないので少し寂しくなって、人の気配が欲しくてログハウスの前で工事をしているのを見ながら飯を食ったから、多分工事の人にはおかしな風に思われていただろうが、気にはならなかった。

 暗くなるまで時間がありそうだったので浜辺を散歩した。海水浴場らしいが、もう寒い、夕暮れ時の海には人っ子ひとりいなかった。見張り台の上に登ってしばらく海を眺めると、もしかしたら後から来るかもしれないライダーの為に敷板を何枚か拾ってログハウスに戻った。結局この日は僕一人だった。

9/19

 朝、目覚ましが鳴る前に起きた。自転車乗りの男性は昨日の晩言っていた通り朝早くに出たらしく、綺麗にいなくなっていた。
 もう一人の宿泊者も既に起きていて、僕が起き上がると「めちゃくちゃ晴れてますよ」と嬉しそうに笑った。窓は磨りガラスだったが、青く光っていたのですぐにそれが本当だとわかった。彼は納沙布岬を諦めて、下道で札幌に戻るらしい。ひととおり片付けをして、単車を駅長の家の前に2台並べて荷物を積み、今はもう動いていないが、オブジェとして飾られているディーゼル機関車の前で写真を撮った。計呂地の公園を出るT字路で僕たちはそれぞれ北と南に別れた。
 「お気を付けて」「ご安全に」と挨拶をして、バックミラーで確認しながら遠くに消えるまで何度も手を振った。サロマ湖の波は穏やかだった。北を向いて走ると、左手に雨雲が見えた。札幌に向かった彼が雨に降られていないといいが。
僕も途中、何度か通り雨とすれ違った。どれも強い雨ではなかった。行く先でひとしきり降ったらしく、道路が水で反射して空が映って綺麗で、先に降ってくれた雨に感謝したりした。遠くの向こうは、道路が消えたように景色と同化していた。
 そのうち雨雲も綺麗になくなって、快晴のオホーツクラインを北上していく。オホーツクの海はエメラルドグリーンに輝いていて、なんだか太平洋や日本海とは違うように見えた。空の青と、海の淡い緑が見たことのない景色をつくっていた。
 途中、オホーツクラインから一本東のエサヌカ線に入った。海沿いの広い平地を真っ直ぐ抜ける道路だ。両脇には鮮やかな緑色の草原が広がっていた。見る限りどこまでもまっすぐだったが、その先は見えなくなっていた。おととい人に聞いた話では、水平線は17キロ先ということだった。地球の丸みで見えなくなるのが17キロ先なのだそうだ。水平線が見える道路、さすが北海道だなと感激しながら途中でバイクから降りて写真を撮ったりして、それでもすぐにエサヌカ線は終わってしまった。
昼飯を食いっぱぐれそうだったので猿払で一度単車を止めた。このあたりは帆立が有名らしく、わりと立派な道の駅で帆立カレーを食べた。かなり儲かっていそうだ。
 宗谷岬に近づくと、左手に穏やかな丘が見え始めた。遠くに風力発電の風車が並んでいた。そのまま行くと、そうかからずに宗谷岬に到着した。最北端の石碑だ。石碑の前には人だかりができていた。同じソロライダーの男性にお願いして、僕も写真を撮ってもらった。近くの土産物屋で最北端到達証明書とかいうよくわからないカードを買った。
 稚内までは海沿いを走ろうと思っていたが、行きに見たあの風力発電の丘を走りたくなって、宗谷丘陵に入った。選択は正しかったようだ。宗谷岬からとてつもなく急な坂を登ると、高い丘からは海が一望できた。丘陵の窪みのゆるやかなカーブを描く道を走るのは僕だけだった。大きな風車が悠然とまわっていた。あまりにも穏やかで、日本国内で好きな場所を上げるなら多分ここを選ぶだろう、と思った。
30分かからずに稚内に到着した。何度か稚内ライダーハウスに電話していたが、不通だったため予約なしで行くことになった。ライダーハウスの前に着いて単車を止めると、窓ガラス越しにおばちゃんが手を振ってくれた。

「飛び込みかい。大丈夫だよ。お風呂入る?」と聞いてくれた。
ライダーズハウスには本業がある場合が多く、根室なら食堂、計呂地なら交通公園、そしてこの稚内のライダーズハウスの本業は銭湯だ。隣にはみどり湯と書かれた看板がある。
「今日は休業日だけど、いつもライダーさんが入りたいって言うから入れてるんだよ。君も出かけたら入るかい」と聞かれた。名簿を見る限り僕のほかにも宿泊客はいるようだった。
銭湯内で人と出くわしたりすると嫌なので、「今からでも平気ですか」と聞くと「いいよ、出かけないのかい」と言う。みんな出かけるらしい。「入ってから出かけます」と答えると「そう、じゃあお風呂が400円で、泊まるのが1000円ね」ということだった。

 風呂は狙い通り貸切だったが、「お湯の温度はぬるめにしてあるよ、ライダーさんに熱すぎだってよく言われるからね」と言っていた割に、風呂の湯は物凄く熱くて僕は飛び上がった。
「セコマ行きます?」風呂に入って洗濯し、一階で寛いでいると、いつの間にか風呂から出てきたのだろう2人連れの男性が声をかけてきた。僕はありがたく徒歩3分のセイコーマートに同行し、何やかんやといいながら限定ものだという酒を3本買った。話していると、2人連れかと思っていた彼らはそれぞれ一人旅だったことがわかった。そのうちの1人は同い年だったので、僕らはすぐに仲良くなった。僕含めて3人だった買い出しはなぜか気付いたら5人になっていた。連れ立ってみどり湯に戻り、酒を飲んで騒いだ。4人ほどは歳が近いこともあって、話は尽きなかった。10人の旅人の中には、スイスからのバックパッカーもいた。礼文島に行くらしい。僕も行ってみたいとは思っていたが、日程的に合わなかった。日本語や拙い英語をまぜて話し、21時になると銭湯のおばちゃんが部屋の明かりを消し、ミラーボールをつけて話始めた。先週の北海道を直撃した台風の話や、このライダーハウスの話、彼女の近況なんかを聞いた。どの話もユーモアを交えて話すのでみんな笑っていた。僕たちもひとりずつ、自己紹介や旅の理由、それぞれの地元のツーリングスポットや、北海道の感想なんかをハンドマイクで話した。最後には全員で肩を組んで松山千春の"大空と大地の中で"を歌った、と言うか歌わされた。北海道の旅人の為のような歌を、僕たちはそれぞれ、酔っていたこともあって、噛み締めながら大声で歌った。

はてしない大空と広い大地のその中で
いつの日か幸せを自分の腕でつかむよう

 

歩き出そう 明日の日に
振り返るにはまだ若い
吹きすさぶ 北風に
飛ばされぬよう 飛ばぬよう

 

凍えた両手に息を吹きかけて
しばれた体を暖めて

 

生きることがつらいとか
苦しいだとか 言う前に
野に育つ花ならば
力の限り 生きてやれ

 

凍えた両手に息を吹きかけて
しばれた体を暖めて

 

はてしない大空と広い大地のその中で
いつの日か幸せを自分の腕でつかむよう

 

    "大空と大地の中で"  松山千春

 

 そのあとはカンパ制の焼酎を飲み、気が付いたらひとり、またひとりと二階の寝室に上がっていっていた。同い年のライダーと僕は最後まで話していたが、消灯時間を1時間回った頃には寝ることになった。

9/18

 自転車乗りが早くに発つと言うので、見送って、食堂にいるお母さんとバイトライダーに挨拶をして発った。ほんのすこし走ったころ、随分と先に出た自転車乗りを見つけたので、止まって話した。「まだこんなところにいたんですね?」というと納沙布岬で写真を撮っていたらしい。さんま祭で会えたらいいですね。そう言って別れた。
 さんま祭の行われている根室港は、9時を若干回ったころだというのに、やはり人で溢れていた。僕のどう見てもバイク乗りな格好(シンプソンの上下雨具を防寒がわりに着ていた)を見て、「どちらから?」「や、遠くから来たんだね。若いなあ。風邪引くなよ」と、生のサンマを貰っては長い網の炭で焼きながら、世間話をした。中にはライダーもいて、今日泊まる宿を決めかねていた僕は彼に相談した。「網走か、そのさきあたりまで行きたいんですけど。丁度いい位置に宿がないので、クリオネに泊まろうかと思ってるんです」クリオネは北海道三大沈没宿といわれているライダーハウスのひとつだった。どうも居心地が良すぎて、なかば棲みついている人が何人かいるらしい。そういった古参の連中がいる宿は普通の人からしてみると、居づらいやらなんやらで、評判も下がってきているらしい。悪い話がありそうならすぐやめようと思っていたが、「クリオネですか。僕ももしかしたらいるかもしれないです」と言うので、案外大丈夫なのかもしれないと思って「もしかしたら会えるかもしれませんね」と言った。結局、クリオネに泊まるには網走から斜里まで30キロほど戻らねばならなかったので、泊まらなかった。彼ともう一度会うことはなかった。さんま祭で会えたら、と言って別れた自転車乗りとも、会えずじまいだった。

 ホッポーロードを越え、パイロット国道を通り、知床半島にさしかかった。知床、というのはシルエトクと言うアイヌ語に当て字を付けたものらしい。他にも北海道の難読地名はアイヌ語由来であることを知り、漢字をカタカナに直すのが楽しくなった。アイヌ語には文字がないから、残すのは難しいそうだ。知床半島には冬になると流氷がくるらしく、道は寒かった。知床峠は霧に包まれていた。阿蘇ミルクロードを彷彿とさせる霧だ。山頂にはより一層濃い霧が見える。あそこまでは登るまいと思っていたら、徐々に霧が濃くなり、どうやら気付かぬうちに随分と高いところまで来ていたらしい。坂で滑らないように細心の注意を払いながら下っていると、これもまた気付かぬうちに国立公園を抜けていた。途中、鹿を何頭か見かけた。

 日が暮れて1時間ほど走り、サロマ湖の畔にある計呂地の「駅長の家」というライダーズハウスについた。電話では管理人は日暮れごろ帰るから、他の宿泊客に入れて貰ってくれと言われていたが、管理人も待っていてくれたようで、暗い公園に入ると懐中電灯を持った老人が元気に歩いてきた。
案内してもらい、五右衛門風呂が沸いているというので、ありがたく頂くことにした。公園のはずれにあるその五右衛門風呂は本当に釜のかたちで、周りは板と屋根に囲まれていた。先についていた宿泊客の2人が薪を割ったらしい。あとから「結構大変でしたよ、いいとこ取りでしたね」と笑われたが、僕も参加したかったなぁと遅くなってしまったことを後悔した。なんにせよ暖かい風呂に入るのは久しぶりでうれしい。外だったが、不思議と服を脱いでも寒くなかった。

 風呂を出て駅長の家に戻ると、2人とももう食事は終わったようだった。自転車乗りの中年男性がひとり、ひとつ歳下だが会社員だという男性がひとりだ。僕は買ってきたご飯を食べながら、自転車乗りが見たという熊の話やら、これから行く稚内の話やらをきいた。ひとつ歳下の男性は煙草を吸うので、飯を食って明日の予定を立て、2人で何度か煙草を吸いに部屋を出た。自転車乗りは明日の朝が早いので、すぐに床についた。
駅長の家は暖房こそついていなかったものの暖かく、ふかふかの絨毯の上で寝袋に入ると上着を枕にして半袖で眠った。久し振りによく寝れた日だった。

9/17

 朝には夜の霧が嘘のように晴れていた。風が攫っていったのだろう。ほかの人が起き出すころには、明け方の雨と朝露で濡れたテントと寝袋、ズボンを干し終わっていた。1時間ほど太陽に当てると、すぐに乾いた。キャンプを楽しんでいる人々がゆっくり朝食を食べているのを横目に出発した。ヌプカウシヌプリの峠道を越えようとしたが、先週の大雨で道が崩落しているようだった。帯広まで引き返して、フロンティア通りを越え、さらに東へと向かった。納沙布岬にあるというライダーハウスが今日の目的地である。浦幌、白糠、釧路の湿原を通り抜け、厚岸と太平洋沿いを走った。道の駅があるたびに少し寄ったりした。根室に着いたのは陽が落ちる1時間ほど前だった。根室の市街地を抜けて半島に入るとそれまでの道とは一気に雰囲気が変わった。最果てというのがしっくりきた。怖いくらいに雰囲気のある漁村であった。年に一度、2日間、今が旬だというさんま祭が行われており、根室港の周りにだけ人が溢れていた。港沿いの道まで、炭火焼のにおいが漂っていた。納沙布岬まではオホーツク海沿いを走った。暗くなっていく東の空に向かって走る一本道は、ぽつぽつと点在する寂れた家と、少し暗い北の海に挟まれて極東へと続いていた。

 岬のそばにある食堂の扉は閉まっていた。中にはまだ人がいるようだった。扉を叩くと、三角頭巾を頭にしたおばちゃんが出てきてくれた。「食事は済んだのかい?」「まだです。泊まりたいのですが」「そこの小屋ね。ちょっと待ってな」隣にはライダーハウスと書かれたプレハブ小屋が建っていた。しばらくして同じくらいの歳の男性がやってきた。「案内しますよ」「バイク、こっちに停めちゃってください。倒れるとマズイんで、敷板持ってきます」「これ、バリオスですか?」「僕もカワサキなんですよ、好きで」「最初変なバイク来たなと思ったんです。原型とどめてないじゃないですか、で、このへんみたらバリオスかなって」よく喋る明るい人だった。冷却装置のカバーを差しながら笑った。「壊れたの治しながら乗ってたら、いろいろいじりすぎちゃって」と話すと「自分でやったんですね、いいなあ」と言ってくれた。
「あ、受付と一緒にめし、食べていってください。もう食堂は閉めちゃったけど、お母さん、泊まるなら作ってくれるって。荷物置いたら、そこのドアから入ってきてください」
 食堂にはいると、それは賑やかだった。案内してくれたお兄さんと、お母さんと呼ばれたさっきの女性がなにか言い争っていた。お母さんと呼んだので、「親子なんですか?」と訪ねると、「このバカ息子、日本一周してるバイトライダーなの。ここでバイトするやつはみんなあたしの息子なの」と言った。なんだそのドラマでしか聞かないような設定は。それにしても本当の親子のように喧嘩しているので驚いてしまった。

「お兄ちゃん、たくさん食べれるかい?」と聞かれたので正直に「はい、めちゃくちゃ腹減ってます」と言うと「そうかい、じゃあサービスで大盛りにしとくからね、サービスだよ」とさっきまで喧嘩していたとは思えないトーンで笑っていた。しばらくして「お待ち遠様。さんま丼特盛だよ」とお母さんが持ってくると、「これは特盛りも特盛りっすよ〜珍しい、いいなぁ」とバイトライダーの彼が言った。
 いただきます、と言うと、お母さんが元気にはいよ!と答えてくれたのがなんとなく嬉しかった。僕が食べている間、バイトライダーとお母さんはずっと親子喧嘩をしていたが、さっきの何でもなかったようなトーンを思い出すと、微笑ましかった。僕も時々話しながら完食した。
「もう2人くるんだけどね。1人は自転車なんだ」とお母さんが言っていた。

 夜、暗くなってから、明日の計画を立てているころ、もう1人が来た。入ってきて僕は驚いた。根室の市街地に入る前に追い抜いた自転車乗りだったからだ。この寒い中、半袖短パン、ヘルメットなしで坂を下っていた彼は記憶に残って当然だった。彼と話をしていると、バイトライダーのバカ息子さんがドアから顔を覗かせた。
「あとの1人は今日は来れないみたいです。消灯一応23時ですけど、おふたりのタイミングで寝ちゃっていいですよ」
そう言われはしたものの、自転車の男性は、なぜか話していて心地よく、北海道に着いて2週間目に入るという彼の土産話や身の上話を聞いたし、ぼくも色んなことを話した。彼はぼくの4つ年上だった。

 そうしていると、ご飯を食べている時食堂の厨房にいた別の眼鏡の男性がかなり酔った様子で酒を持って入ってきた。てっきりお店の従業員とかだと思っていた彼も、ライダーで短期バイト中らしい。
先に小屋にいた僕たちは、「あした日の出見にいこうって話なんです。一緒に見に行かれますか?」とさっき2人で立てていた計画を持ちかけた。そのあともしばらく酒を飲みながら話し、少し寒い小屋で布団を敷いて寝た。

 朝、起こされた。「そろそろ日の出の時間やないですか?」短期バイトの眼鏡の彼が咳き込みながらそう言った。僕たちは3人で歩いてすぐの岬にむかった。岬には日の出を見にきた人がちらほらと確認できた。

 薄明るくなってきた空に、やっぱり寒いな〜、などと言いながら、僕たちは日の出を待った。納沙布岬、日本の最東端からみる朝日は、素晴らしいものだった。雲の切れ間から 僅かに顔を覗かせたと思ったら、太陽はぐんぐん昇って、海から離れた。赤い太陽が、まるく、水面をきらきらと反射させていた。並んで言葉を失いながら、次の雲にすべて覆われてしまうまで眺めていた。国内の最東端と最西端では日の出の時間がおよそ2時間も違うらしい。間違いなく、納沙布岬が、日本で一番早い日の出だ。
 短期バイトの彼はそのまま朝の仕事に向かった。自転車乗りは体力を使うので、すぐに寝直しに小屋に戻った。僕は暖かいミルクティーを自販機で買って、朝焼けを見ながら一服した。 プレハブ小屋に戻ると、寝に戻ったはずの自転車の彼もまだ起きていて、お互いに大あくびをしながら「寝ますか」と笑った。

9/16

 昨晩はフェリーを降りて30分ほど西に向かって走り、苫小牧市街地の自遊空間に泊まった。三河からのBMWの中年男性は苫小牧港付近のライダーハウスに宿をとっているそうなので別れ、香川ナンバーの青年のあとについて市街地に出た。夜なので警戒していたが、目的地までの道は広くまっすぐで、すぐに明るい市街地に出た。9月中旬、夜の北海道は思っていたより寒い。眠れるうちに睡眠を取ったほうが良さそうだった。自遊空間のドリンクコーナーの暖かいスープを飲んで、日が変わる前に眠った。
翌朝、白老のアイヌ民族博物館でオハウを食べた。
 これから東へ。反時計回りで北海道を一周する予定だ。いったん襟裳岬に向けて海岸線を南下し、道もなくなってくるころ道央に向けて北上した。士幌高原に近付くにつれ、緑の豊かな木々の中に白い木が混ざっているのを見た。白樺だろう。

 東ヌプカウシヌプリ山の麓でテントを張った。姿は見えなかったが、僕のほかにふた張りテントが張ってあった。高原だからか、北海道だからか、どちらもである可能性のほうが高いが、凍えるほど寒かった。炊事場に置いてあった湿気った木になんとか火をうつし、焚き木をしながらめしを食った。月の綺麗な夜だ。そういえば今日は多分十五夜の満月だ。雲の切れ間から時々覗く月明かりがこのあたりの何よりも明るかった。山から吹き降ろす風は強く、木々が音を立ててしなっていた。夜が更けるに連れて風が強まり、僕がテントのはためく音に悩まされながらも寝かけた時、一際大きな風の音と共にテントが倒れた。

僕のテントが倒れた際にひとつ上のサイトにテントを張っていた人が見に来たので、 「そっちに越してもいいですか?」と聞き、テントの倒れていない彼らのほうへ引っ越すことにした。風除けになりそうな建物の陰にテントを張りなおしたころには少し疲れて、さっきよりは寝るのに苦労しなさそうだった。一晩中山は唸っていた。アイヌ民族でも山には山の神がいると言われてきたそうだが、ヌプカウシヌプリ山を見上げてみれば、あれを神と言うのも頷ける。いつも本州で見ている山とは、明らかに様子が違った。緑色の草の山に、白や茶色の、葉の落ちた裸の木々がまばらに立っていた。明け方雨が降った。テントを張りなおした時には暗くて見えなかったが、若干地面が窪んでいて、そこに水が溜まり、浸水してしまっていた。寝袋を越してズボンまでも濡れていた。

9/15


 窓の光で起きた。6時前だった。もしかしたら朝日が見られるかもしれないと思いオープンデッキに向かったが、あいにくの雲で太陽は見えなかった。今日は1日船の中にいるのだ。そう早く起きていても仕方がない。部屋に戻り、もう一度眠るまでには時間がかかった。11時を過ぎたころ、船内アナウンスで目が覚めた。船内にあるレストランで昼食を開始する旨のアナウンスだが、僕はフェリー内での食事は高価であることを事前に調べて知っていたので、持ってきていたパンと自販機で缶入りの牛乳を買ってコンビニ袋をぶらさげオープンデッキに向かった。オープンデッキは人気がないようで、昼過ぎと言っても僕だけだった。パソコンを持ち込みゼミの提出書類を作り終えたあとは、1冊だけ持ってきていた小説(旅のラゴスだった)を読んで過ごした。喫煙は船内のスモーキングスペースに限られており、その部屋のにおいが好きではなかったが、結局は何度か行くことになった。
 「船長の・・・です・・・現在、速力27ノット、時速50キロで順調に航海中です・・・波は穏やかで、苫小牧港への着港は20時30分、午後8時半を予定しております・・・」大型フェリーに乗るのは4度目、客室つきの大型クルーズ船は過去2度ほど経験したがいずれも風や波は穏やかで天気も良く、クルーズ日和だと告げられていた。今回の船旅も上々そうで何よりである。

 船内では各々到着までの時間をくつろいでいた。年齢層は比較的高く、ドライブか、ツーリングか、机に大判の地図を広げている人も何人か見かけた。乗り込み時に顔見知りになったライダーの3、4人の人とすれ違うたびに挨拶しながら、順調に航海していた。
 夕暮れ時になって、船は津軽海峡を横断した。昼間誰もいなかったオープンデッキでは、夕日を見るためか、または見えてきた目的地を確認するためか、何人かが海に向かって手摺に肘をついていた。僕も身を乗り出すと、左手には青森の山が、右手には函館の街と函館山が霞んで見えていた。快晴だった。夕日のオレンジ色と青のグラデーションが、綺麗だとしか言いようがなかった。
 津軽海峡を横断してから3時間ほどで船は苫小牧港に着港した。